目の前で繰り広げられる伊達者・政宗公の生涯。まさに、ウォークスルー型の歴史絵巻

武将・伊達政宗公の誕生から晩年までの各シーンを、
精巧かつ感情豊かな蝋人形で鮮やかに再現。
政宗公の生涯に入り込んだかのように体感し、
歴史を知るっておもしろい!を実感できる展示です。

史実は劇を凌ぐその一幕をご覧あれ

辛い幼少期に光をもたらした名僧の教え

5歳のときに天然痘を煩い、右目の視力を失ってしまった梵天丸(ぼんてんまる・幼少期の政宗の呼び名)。名家出身・美貌で有名だった母親は、片眼となってしまった梵天丸を疎み、弟の竺丸(じくまる)を可愛がります。片眼というコンプレックスの上、母の愛情にも恵まれず、辛い幼少期を送った梵天丸。一方、父・輝宗は梵天丸を愛していました。伊達十七代の家督を継ぐ器に育てたかった輝宗は、美濃の名僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)を梵天丸の師として招きました。虎哉は、仏教、漢学、文学など学問の手ほどきを行うだけでなく、梵天丸に「武将としての生き方」を示しました。虎哉の教えにより、梵天丸は己の弱さを克服する努力をしていったのです。

父の死を乗り越え、奥州一の大国を築く

18歳の若さで伊達藩の当主となった政宗。ところがその翌年、最愛の父・輝宗が二本松城主・畠山義継の謀略により惨殺されてしまいます。この痛恨の出来事により、政宗の性格は一変し、逞しい武将に変貌していったのです。父の仇討ちをと、政宗は二本松城を攻略。人取橋の激戦を制しました。これは政宗の生涯でも最も激しい戦いでした。翌年、宿敵である芦名氏を破ると、遂に自らの手で奥州一となる200万石の大国を作り上げました。これにより、伊達藩は秀吉、北条氏に次ぐ大国となったのです。

秀吉の小田原攻めに参戦。覚悟の死装束

秀吉から何度か小田原参陣の催促が来ていたものの、秀吉傘下に入ることは政宗の反骨精神が許しません。戦うべきか、否か・・・藩を二分する論争となりました。結局、時流を読んだ政宗は秀吉に追随することを決めますが、秀吉は謁見を許さず、政宗一行を箱根山中に押し込めます。その後、秀吉の陣所に呼び出された政宗。場合によっては差し違える覚悟で、死装束で謁見します。しかし秀吉は政宗に自分の刀を持たせ、山上で作戦を説明しました。絶体絶命を切り抜けた政宗は、秀吉の豪胆さに圧倒されたと言われています。

藩の繁栄に尽力。数々の伊達な文化が生まれた

徳川の政権が確立すると、太平な世の中が訪れました。政宗は、青葉城の築城や北上川下流の開発をはじめとする数々の事業を行い、仙台藩の繁栄に尽力しました。この頃に生まれた文化は現代にも引き継がれています。後年の特筆すべき大事業は、支倉常長らをヨーロッパに派遣したことです。ローマ法王らに謁見し、キリスト教の布教と引き換えにメキシコとの貿易の許可を得ようとしたこの計画は、幕府のキリスト教弾圧もあり達成されませんでした。この時期に三陸を襲った慶長大津波のわずか2週間後に、サンファンバウティスタ号の建造と使節派遣の構想を発表したという事実を踏まえると、この計画には災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないかとも見ることができます。

曇りなき心の心の月を心の先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く

暗闇の中、月の光を頼りに前へ進むように、先のみえない戦国の乱世を、
自分の信念だけを頼りに生きてきた、そんな人生だったなぁ。
伊達政宗公 辞世の句
暗闇の中、月の光を頼りに前へ進むように、
先のみえない戦国の乱世を、
自分の信念だけを頼りに生きてきた、
そんな人生だったなぁ。
伊達政宗公 辞世の句

歴史を知るっておもしろい!をみちのく伊達政宗歴史館で体感するのじゃ〜

歴史を知るっておもしろい!をみちのく伊達政宗歴史館で体感するのじゃ〜

もっとディープに

みちのく伊達政宗歴史館を楽しもう!

あなたは何人わかるかな?
東北が生んだ偉人たちにも会える!

館内は撮影OK!
ぬい撮りやアクスタ撮影も歓迎!
感情豊かなろう人形の芸術性にも注目!
コンピューターで再現された
政宗の声が聞ける!
甲冑着付け・兜体験で
政宗公になりきり!

クイズラリーや館長のひと言で
歴史雑学を楽しく学べる!

小学生向け歴史めぐりシートで
ゲーム感覚で学ぼう!

館内を360度カメラでご案内!

バーチャル歴史館

みちのく伊達政宗歴史館

一般(高校生以上)

1,000円(税込) 

小中学生

500円(税込) 

未就学児

無料

一般(高校生以上)

500円(税込) 

小中学生

300円(税込) 

未就学児

無料

※窓口にて手帳をご提示ください。
※施設やグループホーム等の団体旅行(20名以上)の場合、職員・スタッフ等も割引価格でご案内します。
お得な共通入館券
みちのく伊達政宗歴史館・松島トリックアート 特別展

一般(高校生以上)

1,200円(税込) 

300お得

小中学生

600円(税込) 

300お得

5歳のときに天然痘を煩い、右目の視力を失ってしまった梵天丸(ぼんてんまる・幼少期の政宗の呼び名)。名家出身・美貌で有名だった母親は、片眼となってしまった梵天丸を疎み、弟の竺丸(じくまる)を可愛がります。片眼というコンプレックスの上、母の愛情にも恵まれず、辛い幼少期を送った梵天丸。一方、父・輝宗は梵天丸を愛していました。伊達十七代の家督を継ぐ器に育てたかった輝宗は、美濃の名僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)を梵天丸の師として招きました。虎哉は、仏教、漢学、文学など学問の手ほどきを行うだけでなく、梵天丸に「武将としての生き方」を示しました。虎哉の教えにより、梵天丸は己の弱さを克服する努力をしていったのです。

18歳の若さで伊達藩の当主となった政宗。ところがその翌年、最愛の父・輝宗が二本松城主・畠山義継の謀略により惨殺されてしまいます。この痛恨の出来事により、政宗の性格は一変し、逞しい武将に変貌していったのです。父の仇討ちをと、政宗は二本松城を攻略。人取橋の激戦を制しました。これは政宗の生涯でも最も激しい戦いでした。翌年、宿敵である芦名氏を破ると、遂に自らの手で奥州一となる200万石の大国を作り上げました。これにより、伊達藩は秀吉、北条氏に次ぐ大国となったのです。
秀吉から何度か小田原参陣の催促が来ていたものの、秀吉傘下に入ることは政宗の反骨精神が許しません。戦うべきか、否か・・・藩を二分する論争となりました。結局、時流を読んだ政宗は秀吉に追随することを決めますが、秀吉は謁見を許さず、政宗一行を箱根山中に押し込めます。その後、秀吉の陣所に呼び出された政宗。場合によっては差し違える覚悟で、死装束で謁見します。しかし秀吉は政宗に自分の刀を持たせ、山上で作戦を説明しました。絶体絶命を切り抜けた政宗は、秀吉の豪胆さに圧倒されたと言われています。
徳川の政権が確立すると、太平な世の中が訪れました。政宗は、青葉城の築城や北上川下流の開発をはじめとする数々の事業を行い、仙台藩の繁栄に尽力しました。この頃に生まれた文化は現代にも引き継がれています。後年の特筆すべき大事業は、支倉常長らをヨーロッパに派遣したことです。ローマ法王らに謁見し、キリスト教の布教と引き換えにメキシコとの貿易の許可を得ようとしたこの計画は、幕府のキリスト教弾圧もあり達成されませんでした。この時期に三陸を襲った慶長大津波のわずか2週間後に、サンファンバウティスタ号の建造と使節派遣の構想を発表したという事実を踏まえると、この計画には災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないかとも見ることができます。